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南部戦線(なんぶせんせん、)は、アメリカ独立戦争中に、フランスがアメリカ合衆国側で参戦してから作戦行動の中心となったアメリカ南部での一連の戦闘をいう。独立戦争の初めの3年間、戦いの舞台は主にボストン、ニューヨークおよびフィラデルフィアの都市周辺を焦点とする北部だった。サラトガ方面作戦の失敗後、イギリス軍は植民地中央部での作戦活動を諦め、南部植民地で有利な講和条件を作る戦略に切り替えた〔Hibbert, C, ''Rebels and Redcoats'', p. 235〕。 1778年以前、南部の植民地は大半が愛国者の支配する政府と民兵隊に支配されたが、1776年のチャールストン防衛、ロイヤリスト民兵の抑圧、およびロイヤリストが強く残る東フロリダからイギリス軍を追い出そうとする試みで重要な役割を果たした大陸軍がいた。 イギリス軍の「南部戦略」は1778年遅くにサバンナの占領で始まり、1780年にチャールストンとカムデンで2度大陸軍を破ったことなどサウスカロライナ植民地での作戦が続いた。ナサニエル・グリーンがカムデンの戦い後に南部の大陸軍指揮を執り、イギリス軍に対して衝突を避け、消耗させる戦略に出た。両軍は一連の戦いを続け、戦術的にはイギリス軍が勝利した。しかし大半の場合はその「勝利」がイギリス軍に損失を出させて戦略的に弱らせていくものであり、大陸軍は勢いを失わずに戦い続けた。このことはギルフォード郡庁舎の戦いで如実に現れた。カウペンスの戦いやキングスマウンテンの戦いのような大陸軍の勝利も全体的にイギリス軍の勢力を弱めることに貢献した。戦線の頂点をなしたのはヨークタウンの包囲戦であり、イギリス軍の降伏で終わって、実質的にイギリス軍の植民地における影響力を失わせることになった〔Roberts, ''The New Penguin History of the World'', p. 723〕。 == 初期の行動 1775年-1778年 == バージニア植民地では、レキシントン・コンコードの戦いの翌日にあたる1775年4月20日、ともに類似点の多いできごとだが、火薬事件が起こった。バージニア植民地の総督ダンモア卿がウィリアムズバーグに保管していた火薬をジェームズ川のイギリスの武装船に移そうとした。彼は植民地の社会不安が増していると見て、バージニア民兵から暴動に必要なものを取り上げようとした。パトリック・ヘンリーに率いられた愛国者民兵隊がダンモアに火薬の代償を払わせようとした。ダンモアは翌月も軍事物資や補給品の貯蔵所を掴もうとし続けたが、愛国者民兵隊をこれを予測してダンモアの到着前に物資を移動させておくことになった。 独立戦争が始まると、ダンモアは1775年11月に奴隷解放宣言を発して、逃亡奴隷に自由を約束しイギリス軍側で戦うよう訴えた。ダンモアの部隊が愛国者民兵を殺し捕虜にした11月のケンプスランディングの戦いの後、12月9日、大陸軍がダンモア指揮下の解放奴隷を含むロイヤリスト軍をグレートブリッジの戦いで破った。この敗北後、ダンモアと彼の軍隊はノーフォーク沖に停泊していたイギリス船に逃れた。1776年1月1日、ダンモアはノーフォークの町を砲撃し焼いた。彼はその夏、チェサピーク湾の島から追われ、復帰することはなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南部戦線 (アメリカ独立戦争)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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